今ご紹介をいただきました慶應大学の井手英策でございます。
 お作法から申し上げれば、「貴重な機会をちょうだいいたしまして、ありがとうございます」とお礼を申し上げなければならないところですけれども、きょうは全くその気はございません。普遍的な真理を追い求めている研究者、それが特定の政党を応援するためにこの場に来る。非常に勇気の要ることでありますし、はっきり申し上げれば、恥ずかしいことだと思っております。

 だからこそ、今僕が抱き締めている悩みや葛藤、熱い思いのようなものを皆さんにお伝えさせていただきたいと思っております。
 今ご紹介にありましたように、今回僕が呼んでいただけたのは、蓮舫代表のご指示のもと設けられました前原誠司先生を会長とする「尊厳ある生活保障総合調査会」のアドバイザーをやっているということ、この理由に尽きていると思います。

 正直に申し上げます。僕がこの仕事をお引き受けさせていただくことを知った友人たちは、口をそろえて「もう民進党はだめだからやめろ。もっといろんな政党といい関係をつくったほうが井手さんのためだ」、そのように言われました。

 しかしながら、それらの助言は僕の心には全く、全く響きませんでした。まず第一に、僕なんかのために三顧の礼を尽くしてお声がけくださったのが前原先生でありました。「マニフェストや個別の政策ではありません。あるべき日本の姿、民進党のよって立つ社会像、国家像、そういうものを示すためにどうか力をかしていただけませんか」、そうおっしゃっていただきました。まさに僕自身が学者としての一線を乗り越えて、腹をくくると決めた瞬間の出来事でありました。

 勝てる勝負、強い者の応援ならば、誰にだってできます。しかし、そんなものは僕にとっては全く何の価値もないことです。一介の学者に向けられた政治家の熱い思いに応えよう、もがき苦しみながらも強い者に立ち向かおうとする民進党の皆さんとともに、国民が夢を託すもう一つの選択肢をつくることができる。こんなに愉快なことがありますか。

 人間には、生まれたことの意味を知る瞬間があるのではないかと思います。それはまさに僕にとって今この瞬間です。学者としての命をかけるならここだ、そういう覚悟で今この場に立たせていただいております。

 そうです。傍観することを、ただ黙って見ていることを、時代が許してくれません。日本の現状を見てください。現役世代への社会保障や教育サービスの水準は主要先進国の中で最低レベル。必死に働いてお金を貯めて、そして自分自身の力を振り絞って明日の暮らしを何とかする。まさに自己責任の社会を僕たちは生きています。

 ところがです。子どもの教育であれ、病気や老後の備えであれ、貯蓄がなければ生きていけないこの社会なのに、家計貯蓄率はほぼゼロに落ちています。夫婦2人で働くようになったにもかかわらず、世帯の収入はこの20年間で2割近く落ちました。

 年収300万円以下の世帯が34%を占め、国民の9割が老後に不安を感じる。異様です。苦しんでいるのは現役世代だけではありません。高齢者の中で生活保護を受ける人の割合、この20年間で倍増しました。「老後の備えとして貯金や資産が足りない」と答えるお年寄りの割合も、欧米の2倍から3倍に達しています。

 それなのに、それなのにです。多くの人たちが不安に打ち震える中、財政は再分配、格差是正の力をすっかりなくしてしまっています。財政が介入すると、子どもの貧困率がかえって悪化するという驚くべき状況までが生まれています。北欧諸国と並んで平等主義国家と言われた私たち日本でしたが、今ではジニ係数を見ても、相対的貧困率を見ても、格差社会、いやいや、あえて言うならば「格差放置社会」をつくり出しています。僕たちは同じ国を生きる仲間なのに、困っている人たちを平気で切り捨てるような社会をつくってしまった。

 いや、今の日本は、弱者を見捨てる、切り捨てるだけでは済みません。僕の住んでいる神奈川県小田原市で、生活保護受給者を見下すようなジャンパーが作製され、それを着用した職員が約10年にわたって生活保護受給者の自宅を訪ねるという問題が発覚しました。僕は一市民として情けなくて、情けなくて、情けなくて、胸がもう悲しみで張り裂けそうになりました。市長のご依頼もあり、この問題を検証する会議の座長を引き受ける決意をいたしましたが、そこで驚くべき事実と出会いました。

 ケースワーカーは、重労働に耐え、時には命をかけて仕事に熱心に取り組んでいた人たちだったのに、組織の中では彼らは孤立し、そして彼ら自身苦しみを訴えるチャンスすら与えられていませんでした。彼らは、加害者であるのと同時に、犠牲者でもありました。追い詰められた弱者が、さらに弱い人たちを差別する。ここにこそこの問題の本質がありました。

 多くの障がい者が殺傷された相模原の事件を思い出していただきたいと思います。戦後最悪の事件の一つでしたし、犯人を許すことは絶対にできません。ただ、一方で加害者は、職を失い障がいを持つ社会的な弱者でもありました。この事件も小田原市の問題と同じで、弱者がさらなる弱者を痛めつけて喜ぶという絶望的な事件だったわけであります。

 そう、誰もが犠牲者に、被害者になり得るというこの悲しい構図の中で、弱者に対する優しさが失われ、不安を抱える者同士が傷つけ合う。それが今の日本社会の姿ではないのかと思います。

 民進党の政策理念に「未来への責任」という言葉がございます。全くそのとおりです。3人の子どもを持つ一人の父親として、このようなみすぼらしい社会を子どもたちに残すわけにはいきません。

 人間同士が分断され、生きることが苦痛と感じるような社会を、子どもたちに絶対に残すわけにはいかんのです。だからこそ、皆さんに聞きたいことがある。皆さんはアベノミクスをどうお考えでしょうか。「かけ声倒れの失敗だった」「何の効果もないじゃないか」、きっとそうお考えでしょう。

 では、皆さんにもう一度お伺いしたい。民進党が政権を取れば、かつてのような経済成長を取り戻すことができるとお考えでしょうか。民進党が政権を取れば、かつてのような豊かな貯蓄をまた本当に取り戻せるとお考えでしょうか。僕はそう思いません。

 成長率を高めるには幾つかのポイントがあります。労働力人口、労働者の生産性、国内の設備投資。しかし、どれも期待できない。そのことは、潜在成長率が1%さえ超えられないという現実によって雄弁に語られていると思います。

 最後の希望は技術革新です。「政府がイノベーションを生み出す」、本当ですか。歴史を見る限り、私の知る限り、日本経済が次々と新しい技術を開発し、そして高い成長率を記録した時代、それは政府が景気対策も規制緩和も行う必要のなかった高度経済成長期のことであります。

 そうです。経済を成長させて、所得を増やして、貯蓄で安心を買うという、この自己責任モデルがもう破綻しているわけです。アベノミクスへの対抗軸は決して成長を競い合うことではありません。

 貧しい人を助けるという常識が通用しない時代がやってきています。生活不安があらゆる人間をのみ込もうとしています。自己責任のこの財政をつくり変え、分かち合い、満たし合いの財政にしていく。貧しい人だけではなく、あらゆる人々の生活を保障していく。期待できない経済成長なんかに依存するのではなく、将来の不安を取り除けるような、そういう新しい社会モデルを示してこそ、対立軸たり得るのではないのかと私は思います。

 不安に怯える国民が待ち望んでいるのは、このパラダイムシフト、勇気ある一歩、発想の大転換だと申し上げたくて、きょうはこの場に参りました。

 僕は20年かけて、自分の学者生命をかけて作り上げた大切な理論を、言ってみれば学者としてのこの僕自身全てを、前原調査会、皆さんにお預けしようと思っています。理由は簡単です。僕はこの日本という国が、好きで、好きでたまらないのです。自分が生まれた国だからではありません。日本がすごい国だからでもありません。家族や友人、愛する人たちが生きるこの国だからこそ、僕は日本が大好きです。大切な人たちが住むこの国を、どうか自己責任の恐怖に怯える国から、「生まれてよかった」と心底思える国に変えてください。人間が人間らしく生きていける社会。人間の顔をした政治を取り戻してください。

 対抗軸は皆さんにしかつくれません。この叫びにも近い強い願いを皆さんに託して、私からのご挨拶の言葉にかえさせていただこうと思います。

 ご清聴どうもありがとうございました。